LOGIN「おや。シンデレラの魔法は、もう解けちゃったのかな?」
背後から、歌うような、それでいてどこか粘り気のある男の声が鼓膜を震わせた。 ビクリと肩が跳ねる。 誰かに見られた。 慌ててヒールを履き直そうとして、バランスを崩した私の身体が大きく傾く。「わっ、と……!」「おっと、危ない」 コンクリートの床に叩きつけられると身構えた瞬間、伸びてきた腕がふわりと私を受け止めた。 湊の、あの拘束するような力強い腕とは違う。 もっと柔らかく、まるで壊れ物を扱うように繊細で、女性の扱いに慣れきったスマートな手つきだった。 鼻をくすぐったのは、甘いバニラの香りと、残り香のような煙草の匂いが混じり合った、退廃的な香り。「……大丈夫? 無理して履かなくていいよ。痛いんでしょう?」 顔を上げると、驚くほど近くに端正な顔があった。 茶色がかった髪を無造作に遊ばせ、切れ長の瞳が優しげに弧を描いている。造「我慢を強いる結婚式に、本当の笑顔は生まれません」 即座に言い返した。 ここだけは、絶対に譲れない。「花嫁が、ドレスの裾を気にして足元ばかり見ていたら。お母様が、カメラの目を気にして泣くのを我慢していたら。……どんなに美しい白薔薇も、ただの背景の作り物に成り下がります」 膝の上で、きつく拳を握りしめる。「私たちの仕事は、夢を見せることではありません。夢のような一日を、何の不安もなく、心から安心して過ごしてもらうための『土台』を作ることです」 真っ直ぐに真琴の目を見つめ返す。 視線のぶつかり合い。 空気がビリビリと震え、火花が散るような錯覚。 真琴の口元から、完全に笑みが消えた。「……素晴らしいお考えですこと」 数秒の睨み合いの後、真琴は静かにティーカップを手に取った。 カチャリ、とソーサーに置く音が、終了の合図のように響く。「今日は、とても有意義なご意見をいただけましたわ。……華枝様が、あなたを指名された理由が、少しだけわかったような気がいたします」 それは、決して降伏宣言ではない。 相手を『敵』として正式に認識したという、宣戦布告の更新。「お楽しみのところ申し訳ない。そろそろ次の予定が入っているので、失礼させてもらう」 隣で沈黙を守っていた湊が、唐突に立ち上がった。 時計を見る仕草すら、計算されたように優雅だ。 彼は差し出した大きな手で、こちらの腰をそっと抱き寄せる。 ジャケット越しに伝わる体温が、緊張で強張っていた背中をゆっくりと解かしていく。「行くぞ」「はい」 立ち上がり、夫人たちに向かって深く一礼する。 誰も、引き留める言葉を発しなかった。ただ、明らかに最初とは違う、困惑と、ほんの少しの警戒が混じった視線が背中に突き刺さるのを感じる。 エスコートされるまま、サロンの出口へと向かう。 乗り切った。泣き出したり、感情的に怒鳴ったりせずに、自分の仕事の言葉だけで反撃でき
真琴の口元の笑みが、わずかに強張った。 構わずに続ける。「次に、親族席の配置です。新婦側のテーブルが、高砂の真正面、最も目立つ位置に設定されていますが……」 タブレットの画面をスワイプし、週刊誌のネット記事が頭をよぎる。「佐倉レイナ様と、実のお母様との間には、長年の確執があるという報道が出ていますよね。ご結婚にも、お母様は最後まで難色を示されていたとか」「それは……ゴシップ誌の噂にすぎませんわ」「火のない所に煙は立ちません。もし噂が事実であれば、お母様をこの位置に座らせるのは酷です。新婦の一挙手一投足が目に入り、マスコミのカメラにも抜かれやすいこの席では、お母様は終始緊張を強いられ、心から祝福できないでしょう」 夫人たちの扇子が、ピタリと止まる。「親族席は、あえて少し斜めの、柱の影になる落ち着いた位置へずらすべきです。そして、そのテーブルの装花だけは、白薔薇ではなく、お母様の故郷の県花や、思い出のある花をさりげなく混ぜる。……娘の晴れ姿を、人目を気にせず静かに見守れる『逃げ場』を作ってあげるんです」 言葉を切って、真琴の目を見据える。「さらに、お色直しの際の控室への導線。この図面だと、メインキッチンとバックヤードの交差点を通ることになります。料理の匂いや、スタッフの慌ただしい怒号が飛び交う裏側を、緊張している花嫁に通らせるわけにはいきません。導線を一本ずらし、手前の予備室を専用の通路として確保するべきです」 一気に言い切った。 喉がカラカラに乾いていることに、今更気づく。 サロンの中は、水を打ったような静けさに包まれていた。 ティーカップから立ち上る湯気だけが、ゆらゆらと宙を舞っている。 誰も、言葉を発しない。 豪華な装飾や、目に見える『美しさ』にしか意識が向いていなかった空間に、泥臭いまでの『現実』を叩きつけた。 ドレスが引っかかる物理的なリスク。 確執のある親子の、ヒリヒリとした感情の逃げ場。 バックヤードの油の匂い。 結婚式は、絵画で
真琴が指を鳴らすと、控えていたスタッフが、数枚の分厚いパネルとタブレット端末をテーブルの上に広げた。「実は今日、皆様にご意見を伺いたい案件がございまして」 パネルに映し出されたのは、一面を埋め尽くす真っ白な薔薇のアーチ。スワロフスキーのシャンデリアが何層にも重なり、光の海を作り出しているような、圧倒的な豪華さを誇る披露宴会場のパース図だった。「来月、女優の佐倉レイナ様が挙げられる結婚式のプランですの。テーマは『クリスタル・スワン』。……佐倉様のご実家と、新郎様である代議士の御家系の格式に恥じないよう、最高級の白薔薇を三万本用意いたしました」 夫人たちから、ほう、という感嘆の溜息が漏れる。「まあ、なんて美しい……」「これなら、各界のVIPをお呼びしても見劣りしませんわね」「白鳥さんのブランドらしい、本当に品のある空間だわ」 称賛の嵐の中、真琴はゆっくりとこちらに顔を向けた。 氷のように冷たい、挑戦的な視線が交差する。「茅野さん。……現場のプロフェッショナルであるあなたから見て、このプラン、いかが思われます?」 サロンの空気が、一瞬にして静まり返った。 夫人たちの目が、面白がるようにこちらに突き刺さる。 どうせ、粗探しなんてできないでしょう。この完璧な空間美に、庶民の口出しする隙なんてないのだから。 そんな無言の圧力が、肌をジリジリと焦がす。 ゆっくりと息を吸い込み、目の前に広げられたパネルに視線を落とした。 たしかに、美しい。予算を度外視した、夢のような空間だ。写真映えという点では、これ以上のものはないだろう。 けれど。 タブレットの画面をスワイプし、会場の平面図と進行表のラフに目を通した瞬間、頭の中で『現場の時計』がカチリと音を立てて回り始めた。 装飾の配置。ゲストの導線。スタッフの動くスペース。 図面の上に、仮想の新郎新婦とゲストの姿が浮かび上がる。 プロとして何百回と繰り返してきた、脳内シミュレーション。「&he
役員会議室の重苦しい空気を切り裂くように響いた、凛とした宣戦布告。 あの日、百合の香水と共に残された言葉が、まだ鼓膜の奥にこびりついている。 数日後。 足を踏み入れたのは、都内の一等地にある歴史ある洋館を改装したプライベートサロンだった。 旧華族系ブライダルブランド『Swan Bridal』。その名にふさわしい、磨き上げられた寄木細工の床と、天井から下がるクリスタルのシャンデリアが、初夏の柔らかい日差しを反射して眩しく瞬いている。 用意されたベルベットのソファに腰を下ろすと、ふわりとダージリンの渋みと、焼き菓子の甘いバターの匂いが鼻先を掠めた。 隣に座る湊のスーツの袖が、そっと二の腕に触れる。上質なウール越しに伝わる高い体温が、ドレスの下で粟立とうとする肌を温めるように押しとどめていた。「まあ。こちらが、湊様の……」 正面に座る着物姿の夫人が、扇子で口元を隠しながら、値踏みするように目を細めた。 サロンに集められているのは、政財界の重鎮を夫に持つ夫人たち。白鳥真琴が主催する、新作ドレスのお披露目を兼ねたお茶会という名目の、実質的な顔合わせの場だ。 向けられる視線は、一見すると穏やかな微笑みに包まれている。けれど、その奥にあるのは明らかな好奇心と、真綿で首を絞めるような冷ややかな品定めだった。「茅野朱里と申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」 膝の上で指先を重ね、一番綺麗に見える角度でゆっくりと頭を下げる。 ブライダルサロンで毎日繰り返してきた、完璧な営業スマイル。頬の筋肉を引き上げ、声のトーンをワントーン高く保つ。 顔を上げると、隣の夫人がティーカップの縁を指でなぞりながら、ふうとため息をついた。「湊様も、随分と可愛らしいお嬢さんをお選びになったのねぇ。……華枝様も、さぞ驚かれたでしょうに」「ええ、本当に。九龍家の奥様といえば、代々、それなりのお家柄の方ばかりでしたから。……現場でお仕事をされているなんて、新鮮ですわね」 言葉の端々に、チクリと刺さる棘。
逃げちゃダメだ。 華枝が託してくれた企画。そして、湊がこれほどまでに信じてくれている。 ここで怯んでしまえば、本当にただの「CEOに守られるだけのお人形」になってしまう。 奥歯を噛み締め、ゆっくりと立ち上がる。 足の震えは、もう止まっていた。「……お言葉ですが」 自分の声が、驚くほど冷静に、会議室の隅々まで通っていく。「格式や家柄で、結婚式が成功するわけではありません。大切なのは、新郎新婦が何を誓い、ゲストに何を伝えたいのかを形にすることです。……私は現場で、何百組ものカップルを見てきました。その経験は、血筋よりも確かなものだと自負しております」 初老の役員が、顔を真っ赤にして睨みつけてくる。「現場の小間使いと、事業の責任者は違う! 経営の何がわかるというのだ!」「経営の数値を作るのは、結局のところ、現場で生み出される一つの結婚式の質の積み重ねです。……やらせていただけますでしょうか」 一歩も引かずに、真正面から見据える。 会議室は、水を打ったような静寂に包まれた。 賛同の空気ではない。圧倒的な「異物」に対する、戸惑いと反発の沈黙。 このまま平行線を辿るかと思われた、その瞬間だった。 カチャリ、と。 秘書が小さく頭を下げ、扉の隙間から来客を告げた。白鳥ブライダルとの提携候補として、後半の議題から招かれていた人物らしい。だが、その登場は、あまりにもこちらの空気を読んだようなタイミングだった。 全員の視線が、入り口へと一斉に向く。 そこには、楚々とした白いスーツに身を包んだ、一人の女性が立っていた。 ツンとした、それでいてどこか高貴な百合を思わせる香水の匂いが、流れ込んできた風に乗って鼻腔をくすぐる。 完璧にセットされた黒髪、真珠のような白い肌。そして、その美貌に張り付いた、氷のように冷たく、挑戦的な微笑み。 旧華族系ブライダルブランド『Swan Bridal』代表。 かつて、湊の婚約者候補として名が挙がっていた女性。
「華枝様の遺志とはいえ……具体的に誰が旗振り役を務めるというのですか」「現在の婚礼部門の責任者たちは、皆一様に及び腰だ。このような大掛かりな改革、失敗すれば首が飛ぶ」 矢継ぎ早に飛ぶ懸念の声。 湊は、一つ息を吐くと、スクリーンを指し示した。「企画書の最後のページに、華枝様からの『指名』がある」 スライドが切り替わる。 そこには、たった二行の短いメモが書き殴られていた。『この企画は、茅野朱里に任せなさい。 あの子は血筋ではなく、人の心で式を作れる子です』 ――え。 頭を、鈍器で殴られたような衝撃が走った。 自分の名前が、スクリーンに大きく映し出されている。 心臓が、早鐘を打つ。手足の先から一気に血の気が引き、次の瞬間にはカッと顔中が熱くなった。 華枝様が、私を。 あのお茶の産地を当て、掛け軸の意味を必死に読み解いた日。「度胸だけはあるようだね」と笑ってくれた、あの日。 華枝は、あの時からずっと、試していたのだ。ただの飾り物ではない、本物のプランナーとしての腕を。「なっ……馬鹿な!」 旧反対派の役員が、勢いよく立ち上がった。「茅野朱里だと!? 彼女はたしかに現場の経験はあるかもしれない。だが、九龍の看板を背負う新規事業の責任者など、正気の沙汰ではない!」「その通りだ。彼女はそもそも、契約から始まった関係だろう。世間ではまだ、CEOの愛人上がりだという目で見られている。格式が違いすぎる!」「伝統ある九龍の婚礼を、どこの馬の骨とも知れない平民に任せるなど、華枝様もご乱心だったとしか思えない!」 会議室は、あっという間に怒号と非難の渦に包み込まれた。 投げつけられる言葉の一つひとつが、紙の端で指先を切るように、じわじわと痛みを残していく。 膝の上で組んだ手が、ガタガタと震え出す。 怖い。 これだけの重圧と、悪意に満ちた視線を一身に浴びて、立っていられる自信がない。 華枝の想いは嬉しい。けれど、私にこの巨大な船







