로그인「おや。シンデレラの魔法は、もう解けちゃったのかな?」
背後から、歌うような、それでいてどこか粘り気のある男の声が鼓膜を震わせた。 ビクリと肩が跳ねる。 誰かに見られた。 慌ててヒールを履き直そうとして、バランスを崩した私の身体が大きく傾く。「わっ、と……!」「おっと、危ない」 コンクリートの床に叩きつけられると身構えた瞬間、伸びてきた腕がふわりと私を受け止めた。 湊の、あの拘束するような力強い腕とは違う。 もっと柔らかく、まるで壊れ物を扱うように繊細で、女性の扱いに慣れきったスマートな手つきだった。 鼻をくすぐったのは、甘いバニラの香りと、残り香のような煙草の匂いが混じり合った、退廃的な香り。「……大丈夫? 無理して履かなくていいよ。痛いんでしょう?」 顔を上げると、驚くほど近くに端正な顔があった。 茶色がかった髪を無造作に遊ばせ、切れ長の瞳が優しげに弧を描いている。造デスクの上のスタンドライトだけが、二人の手元を柔らかく照らし出していた。 残務処理を終え、パソコンをシャットダウンしようとマウスに手を伸ばした時。 背後から、上質なウールの感触と、大きな温もりが体をすっぽりと包み込んだ。 湊の腕が腰に回され、広い肩に背中を預ける形になる。 首筋に顔を埋められ、深く息を吸い込む音が聞こえた。「……少し、休みたくなった」 普段の隙のない姿からは想像もつかない、甘えるような弱音。「お疲れ様。本当に、よく頑張ってるわ」 回された腕に自分の手を重ね、その手の甲を親指でゆっくりと撫でる。 硬く強張っていた湊の筋肉が、少しずつ解れていくのがわかる。「……来週の温泉宿の手配、完璧に済んでいるぞ。誰の邪魔も入らない、露天風呂付きの離れだ」 首筋に唇が触れ、くすぐったい感覚が全身の毛穴を逆立てる。「ふふっ。九龍の当主様が、温泉の予約に全力を注いでいるなんて、役員たちが知ったら卒倒するわね」「構うものか。俺にとっての真の玉座は、君の隣にしかない」 湊の腕の力が強くなり、身体ごと反転させられる。 至近距離で交わる視線。 スタンドライトのオレンジ色の光が、湊の瞳の奥で小さく燃えているように見えた。「あの狭いアパートで、二人きりでこの会社を作った夜を、今でも鮮明に覚えている。……俺は、あの夜、君にすべてを救われたんだ」 湊の指先が、頬の輪郭をそっと、確かめるようになぞる。「九龍の当主になっても、俺の帰る場所はここだ。君と作り上げた、この『M&A』だ」「……私もよ、湊」 そっと背伸びをして、その温かい唇に自分の唇を重ねる。 ほんの一瞬の触れ合い。 しかし、離れようとした身体を引き寄せるように、湊の大きな手が後頭部をしっかりとホールドした。「……逃がさない」 低く掠れた声と共に、今度は深く、息を奪うような熱いキスが降
冷酷なCEOとしての顔が微かに覗く。 だが、組まれた腕が解かれ、その視線が真っ直ぐにこちらへと向けられた時、湊の瞳の奥にあったのは、計算でも合理性でもない、どこまでも純粋な熱だった。「……ここは、俺たちがゼロから立ち上げた場所だ。『Minato & Akari』。この名前を、九龍の巨大な影の中に塗り潰したくはない」 湊の声が、胸の奥を静かに、けれど強く震わせる。 あの古くて狭いアパートの一室。 九龍の権力も、財産も、すべてを失った湊が、小さなちゃぶ台の上でノートパソコンを開き、夜通し語り合った日々。 何もないところから、互いへの信頼だけを武器に立ち上げた、たった一つの会社。「それに、この会社は血の繋がりではなく、実力と信頼だけで結ばれた人間が集まる場所だ。九龍の古い因習とは、明確に切り離しておきたい」「ちょっと! M&Aがなくなるなんて最悪の噂、本気にして損したじゃないの!」 突然、オフィスの扉が荒々しく開かれ、大量の生地のサンプルを抱えた麗華がズカズカと足音を立てて入ってきた。 髪は無造作に束ねられ、指先にはミシンの針で刺したのか、いくつもの小さな絆創膏が貼られている。かつてのブランド志向の塊だった令嬢の姿はそこにはなく、服作りへの執念に燃える職人の顔があった。「私がせっかくアパレル部門のチーフデザイナーとして、寝る間も惜しんでこのブランドを軌道に乗せてきたのに。九龍の古臭い親父どもの傘下に入るなんて、絶対にごめんよ。私の美学に反するわ!」 山ほどの生地を空いているデスクにドサッと降ろし、両手を腰に当てて湊を睨みつける。 ツンケンした態度の裏側に透けて見える、この場所への強い愛着。「麗華さん、大丈夫よ。湊が、この会社をそのまま残すって決めてくれたから」 微笑みかけると、麗華はフンと鼻を鳴らし、少しだけバツの悪そうな顔をして視線を逸らした。「……当然ね。私という天才デザイナーを手放すなんて、経営者として愚の骨頂よ。せいぜい、私に高い給料を払い続けるために、身を粉にして働きなさい」「相変わ
「……三日前の何気ない一言を覚えてて、わざわざ激務の合間に買いに行かせる九龍の当主。重い、重すぎるよ、愛が」「うるさいぞ、征司。君が持ってきたその砂糖の塊は、詩織さんにすべて献上しろ」「ええっ、俺の分は!?」 詩織が「ごちそうさま」と一言だけ告げて、箱ごとドーナツを自分のデスクへと引き寄せる。 湊はそのままデスクの横に立ち、手にした紙袋をそっと置いてから、モニターの画面を覗き込んできた。 肩が触れそうな距離。 冷たい冬の外気を吸い込んだ上質なウールの匂いと、湊自身の清潔な体温が混ざり合った香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。「……麗華の新作か。相変わらず、妥協のない仕事をしているな」「ええ。生地の仕入れから縫製まで、すべて彼女が工場に張り付いて確認しているの。前の彼女からは想像もつかないくらい、泥臭く働いているわ」 湊のネクタイが、身を乗り出した拍子にデスクの縁に触れ、微かな摩擦音を立てる。「無理しないで。来週の温泉旅行のために、スケジュールを極限まで詰め込んでいるんでしょう?」 見上げると、深い色の瞳が至近距離でこちらを見つめ返してきた。「……君との約束は、九龍のどんな決裁よりも最優先事項だ。それに、君の顔を見ないと、会議中の殺伐とした空気に当てられて窒息しそうになる」 大真面目な顔で発せられる甘い言葉に、心臓の奥がトクンと大きく跳ねる。「はいはい、ごちそうさま。そこ、神聖なオフィスで九龍家の秘事を繰り広げないでちょうだい」 詩織が、ドーナツを齧りながら冷ややかな視線を送ってくる。 湊は咳払いを一つして姿勢を正すと、持っていた革製のブリーフケースから一部のクリアファイルを取り出し、詩織のデスクへと差し出した。「本題に入ろう。今日の役員会議で出た、このM&Aホールディングスの吸収合併案だ」 その言葉に、オフィスの空気が微かに張り詰める。 征司が、ドーナツの粉を払う手を止めた。「……やっぱり、出たのか。老害連中か
キーボードのプラスチックを叩く乾いた音が、少し手狭なオフィスに軽快なリズムを刻んでいる。 エスプレッソマシンから立ち昇る深く焙煎されたコーヒーの香りと、暖房の効いた少し乾燥した空気が、ガラスのパーテーションで仕切られた空間を満たしていた。 デスクの上のモニターには、麗華が新しく立ち上げたアパレルブランドの新作カタログのデータが映し出されている。シルクの光沢や刺繍の細部を確認するため、マウスのホイールを回して画像を拡大していく。 九龍本社の、音を立てることすらためらわれるような重厚な静寂とは対極にある、活気と熱を帯びた空気。 ここ、M&Aホールディングスのオフィスには、血の繋がりや古い因習といったしがらみは一切存在しない。「差し入れのお通りだ! 詩織の機嫌を直すための最高級の生贄を持ってきたぞ!」 フロアの入り口から、両手に有名ベーカリーの紙箱を掲げた征司が、満面の笑みで飛び込んできた。 ダークスーツのボタンを外し、ネクタイを緩めたその姿は、相変わらずどこか隙があるようでいて、営業先では誰もが心を許してしまう特有の愛嬌を放っている。「誰の機嫌が悪いって?」 背後から、分厚い契約書の束を抱えた詩織が音もなく近づき、征司の背中をバインダーの角で軽く小突いた。「痛っ! ……いや、九龍本社のコンプライアンス改定と、こっちの法務チェックの二足のわらじで、疲労が溜まっているんじゃないかと心配しただけで……」「なら、無駄口を叩いてないでその箱を開けなさい。糖分が切れて頭が回らないのよ」 詩織は眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げながら、デスクのパイプ椅子に腰を下ろした。 箱が開けられると、アイシングがたっぷりとかかったドーナツの強烈に甘い匂いが、コーヒーの香りを瞬時に上書きしていく。「朱里も食べるだろ? ほら、一番甘そうなやつ」 征司がナプキンで包んだドーナツを差し出してくる。 受け取ろうと手を伸ばした瞬間、背後のガラス扉が静かに開く音がした。「……業務時間中に、随分と和やかな雰囲
二人の掛け合いを見ていると、先程までの重苦しい空気が嘘のように風通しが良くなっていく。 湊も、肩を揉まれていた姿勢のまま、微かに肩を揺らして笑い声を漏らした。「詩織さんの言う通りだ。腐った根を取り除いた後の土壌改良は、一刻を争う。……書類は後で書斎に運んでおいてくれ。必ず今日中にサインする」「了解。じゃあ、私たちは本社の法務部に戻るわ。征司、行くわよ。運転手よろしく」「へいへい、女神様には逆らえませんって」 嵐のように現れ、嵐のように去っていく二人。 閉まった襖を見つめながら、湊が小さく息を吐いた。「……騒がしい連中だが、不思議と悪くない」「ええ。頼もしい家族が増えたわね」 揉みほぐしていた手を離すと、湊が振り返り、その大きな手で私の手首をそっと掴んだ。「……来週、少しだけ予定を空けておいてくれないか」 引き寄せられるままに身体が傾き、湊の広い肩口に額が触れる。 白檀の香りと、湊自身の清潔な体温が混じり合った匂いが鼻腔を満たした。「来週? 詩織があんなに書類の山を用意しているのに、休めるの?」「俺が数日不在にしたくらいで傾くような、柔な組織にはしていないさ。それに……」 湊の指先が、着物の袖口から覗く手首の脈打つ部分を、ゆっくりと円を描くようになぞる。 くすぐったいような、甘い痺れが腕を伝って登ってきた。「前に言っていただろう。……温泉に、行こうと」 その言葉に、ハッと顔を上げる。「本当? いつか行けたらいいな、くらいに思っていたのに」「俺は、君との約束を忘れたことは一度もない。……これからの長い戦いの前に、少しだけ、二人きりで息継ぎがしたいんだ」 湊の漆黒の瞳が、至近距離でこちらを覗き込んでいる。 先程まで百人の人間を震え上がらせていた冷徹な王の顔はどこにもなく、ただ真っ直ぐに体温を求めてくる、一人の不器用な青年の顔がそこにあった。
怯みそうになる背中を、湊の熱がしっかりと支えてくれている。 最前列で、志保が深く、満足そうに頷くのが見えた。「……新当主ならびに、奥様。我々一同、全身全霊をもってお支えいたします」 最前列に座っていた長老格の男が、絞り出すような声でそう言うと、両手をついて深く頭を下げた。 それを皮切りに、広間にいる百人全員が、波が引くように一斉に畳に額を擦り付けた。 衣擦れの音と、深く息を吐く音が幾重にも重なり合う。 香炉から立ち昇る沈香の匂いが、新しい時代の始まりを告げるように、静かに、そして力強く空間を満たしていった。 ◇「……ああ、肩が凝った」 継承の儀が終わり、親族との煩わしい挨拶回りをすべて終えて、本邸の奥にある控え室に戻った瞬間。 湊は襖が閉まるのを確認するや否や、袴の腰板のあたりをトントンと拳で叩きながら、畳の上にどさりとあぐらをかいた。 先程までの大木のような威厳はどこへやら、大きく息を吐き出して首をぐるぐると回している。「お疲れ様。本当に、立派だったわよ。大広間の空気を完全に支配していたもの」 隣に座り、固く結ばれた湊の肩から首筋にかけて、両手の親指でゆっくりと揉みほぐす。 紋付の厚い生地越しでも、岩のように強張った筋肉の硬さがダイレクトに伝わってきた。「痛っ……そこ、もう少し優しく頼む」「あら、新当主様はこれくらいの力加減で悲鳴を上げるの?」「当主とて生身の人間だ。……それに、君の指圧は容赦がない」 湊が苦笑しながら目を閉じた、その時。 スパーン!と、遠慮のない勢いで控え室の襖が開け放たれた。「いやぁ、兄貴! 最高に痺れたね! あの長老連中、完全に蛇に睨まれたカエルみたいになってたぜ!」 満面の笑みで飛び込んできたのは征司だった。ネクタイをすでに半分緩め、完全にリラックスした様子で畳の上にどっかりと座り込む。 直後、その後ろから呆れたようなため息と共に詩織が入ってきた。
玄関で出迎えたのは、いつもの女中頭だった。 そして、その奥から、氷の上を滑るような音のない足取りで現れた人物。 継母、九龍志保。「……おかえりなさいませ、湊様。茅野様」 感情の読めない能面のような表情。 けれど、その視線が私に向けられた時、一瞬だけピクリと眉が動いた気がした。 以前のような、蔑むような冷たさではない。けれど、決して歓迎もしていない、何かを探るような深い色の目。「華枝様がお待ちです。……書斎へ」「ああ」 湊は志
あの絶対的な自信に満ちたCEOが、初めて見せる弱音。 その背中が、私の知っている彼よりもずっと小さく、脆く見えた。 志保はもはやパニックで役に立たない。総支配人もおろおろするばかり。 麗華は高みの見物を決め込んでいる。 誰も、動けない。 ――カッ、と。 私の腹の底で、熱い火種が爆ぜた。 冗談じゃない。 こんな、しょうもない悪意に負けてたまるか。 私の雇い主を、私の「婚約者」を、こんな形で笑い者になんてさせてたまるか! これは結婚式じゃない。 でも、状況は同
「事故だと……!? 警察には確認したのか!」「それが、現場周辺が大渋滞で、誰も近づけない状況らしく……連絡も途絶えてしまって……」 総支配人の声が裏返る。 事故? メインシェフが来ない? 食材も届かない? 血の気が引いた。 今夜のパーティーの目玉は、剛造も言っていた通り、三つ星シェフによる特別コース料理だ。 招待客の多くは、それを楽しみに来ている。 それが、「出せません」で済むはずがな
会場の喧騒の中、呆然と立ち尽くしている二つの影があった。 九龍剛造と、綾辻麗華だ。 剛造はグラスを持ったまま彫像のように固まり、麗華に至っては、能面のように表情を失っている。 彼女たちが描いた「九龍家の没落」というシナリオは、私の「宝石箱」によって、跡形もなく粉砕されたのだ。 ざまあみろ。 心の中で舌を出してやる。 その時。 人垣がさざ波のように割れ、一人の人物がこちらへ近づいてくるのが見えた。 コツ、コツ、と杖をつく音が、不思議なほど鮮明に響く。 九龍華枝だ。 小柄







